第十七回 絵にみる慈眼寺の歴史

第十七回 絵にみる慈眼寺の歴史

「慈眼寺の歴史」のページでも述べましたとおり、慈眼寺は室町時代の天文十三(1544)年、今日における中野坂上駅方面・堀越高校の隣りに創建された寺院です。

その後江戸時代になってから、今日における新中野駅近く・青梅街道(おうめかいどう)に面した現在の地へ移転しました。

 

 

さて、既にホームページ内にも掲載している上記画像は新たに書き起こしたものではなく、『堀之内妙法寺記(ほりのうちみょうほうじき)』という古文書に掲載された挿絵です。

『堀之内妙法寺記』は杉並区の日蓮宗の御寺院・妙法寺様についての書物です。

この挿絵から、江戸時代の青梅街道の賑わいや、移転して間もないころの当時の慈眼寺の様子について少しだけ知ることができます。

 

 

青梅街道は、徳川家康が江戸幕府を開いたのちの慶長年間(1600年前後)に、江戸城を造営するための石灰を江戸へ運ぶために拓かれた、東西に延びる道路です。

江戸城が落成したのちは、多摩地方と江戸を結ぶ道路として賑わったようです。

 

 

絵からは青梅街道沿いに立ち並ぶ古民家・豊かな自然・籠を抱えた行商人や馬が行き交う…といった、まるで時代劇のような雰囲気が感じられます。

また、絵の左側の交差点には、妙法寺様へ向かう古くからの参道・鍋屋横丁(なべやよこちょう)の昔の姿も確認できます。

そして、現在とおおよそ変わらぬ場所に、慈眼寺の本堂が建てられているのがわかります。

当時は細い参道があり、その先に屋根の付いた山門が建てられていたようです。

 

 

時は流れ、青梅街道沿いには馬の姿はなく、四六時中自動車が走っています。道路沿いの建物も、和風の民家は姿を消し、マンションが立ち並んでいます。

慈眼寺の本堂も、落雷や空襲によって何度も焼失・再建しているため、すっかり様変わりしてしました。

しかし、創建当初からのご本尊である「聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)像」は、幸運にも度重なる火災の危機を免れました。

 

 

こうして、江戸時代も二十一世紀の今も変わらずに、観音さまは本堂から、青梅街道や鍋屋横丁を見守り続けています。

 


 

※上記の挿絵が掲載された古文書『堀之内妙法寺記(ほりのうちみょうほうじき)』は、「国文学研究資料館」のデータベースから、以下のようにインターネット上で無料で閲覧することができます。

『堀之内妙法寺記』

(上記の画像はこちらの16コマ目のものです。慈眼寺は「自現寺」として表記されています。)