第十九回 写真にみる慈眼寺の歴史(旧本堂写真の発見)

第十九回 写真にみる慈眼寺の歴史(旧本堂写真の発見)

 

 

先日、図書館で調べものをしていたところ…

昭和八年(1933)に発刊された『中野町史』という本の中に、慈眼寺の旧本堂についての記録と、その姿を残した写真(上記参照)が掲載されているのを見つけました。

 

第十七回の記事でも述べました通り、慈眼寺の旧本堂は、昭和二十年(1945)の空襲で焼失しました。現在の本堂は、昭和三十年代に再建されたものです。

ご本尊である聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)像こそ幸いにも被害をまぬがれましたが、その際に多くのものが焼失してしまいました。

その際に古い記録や写真が焼けてしまったために、旧本堂がどのような姿をしていたのか、今まで長い間わからないままになっていました。

 

『中野区史』の記述によると、この木造の旧本堂は、今から二百年程昔に起きた雷による火災ののちに再建されたものだそうです。

写真では瓦葺きの屋根ですが、創建当初は茅葺きの屋根だったとも記されていました。

また、「明治元年(1868)に逃亡中の彰義隊が本堂に押し入って、その際に付けられた刀傷が柱に残っていた」という言い伝えが寺院に残っています。

 

 

以上に記したものや出来事を間近で目撃・体験した方々は、残念ながら今日ではほとんどいません。

ですが、今日まで記録されて語り継がれてきた歴史は、これからも多くの人に知ってもらうことで生き続けることができます。

この寺報も、その一助となれば幸いです。

 

 

昭和初期の本堂と今日の本堂。表面は塗り替えられていますが、天水桶(てんすいおけ)はそのまま残されていることがわかります。

 

 

※彰義隊(しょうぎたい)

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)を警護するための部隊。

明治元年(1868)に上野で起きた上野戦争にて、明治新政府に敗北して解散した。