第一回 「慈眼寺」という寺院名について

第一回 「慈眼寺」という寺院名について

 

このページでは、当山に勤める僧侶による、当山・福王山慈眼寺や仏教についてのコラムを掲載いたします。
第一回目は、この「慈眼寺」という寺院名にまつわるお話にて始めさせていただきます。

 

 

 

 

慈眼寺の「慈眼」という言葉は、『観音経(かんのんぎょう)』というお経の中にみられます。

 

『観音経』は、『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』、通称『法華経(ほけきょう)』の中の
「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五」を抜粋したお経です。
このお経は、当山が所属する真言宗だけでなく、天台宗などの他宗派の寺院においても読まれており、日本において広く親しまれているお経の代表格といえます。

 

 

『観音経』の内容は、当山の御本尊でもある観音さまがもたらすご利益について、お釈迦様が説き明かすというものです。
この中に説かれる、観音さまを讃えた偈(げ =詩)に、「慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)」という一節がみられます。

 

この一節は、「(観音さまが)慈しみの瞳で衆生(すべての存在)を見る」と訳すことができます。
よって、「慈眼寺」という寺院名には、すべての命に分け隔てなく向けられる、観音さまの慈愛の心が表されている…。といっても過言ではないかもしれません。

 

 

なお、「慈眼寺」という名前の寺院は当山だけではありません。
Google等で検索すると、日本中に同名の寺院が数多くある事がおわかりいただけると思います。
筆者自身、今までに数ヶ所の「慈眼寺」にお勤めされる方々にお会いしたことがあります。
寺院の歴史上、過去に繋がりがあるというわけではありませんが、不思議と親近感を覚えてしまうものです。

 

また、鹿児島県には「慈眼寺町」「慈眼寺駅」といった地名・駅名まで存在します。
これらの由来となった慈眼寺は飛鳥時代からの歴史を持つそうですが、明治時代になくなってしまい、今日では市の文化財「慈眼寺公園」となっているようです。地名として名が残るほどに歴史のある寺院であったことが偲ばれます。

 

 

当山・福王山慈眼寺は、室町時代の天文十三年(1544)より歴史を連ねる寺院です。
これから開山より五百年を迎える当山を、今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

 

※『妙法蓮華経』は、二十八の章立てによって成り立っているお経です。
「観世音菩薩普門品第二十五」は、その中の二十五番目の章ということになります。