慈眼寺の歴史

慈眼寺(じげんじ)は、山号を「福王山(ふくおうざん)」、院号を「弥勒院(みろくいん)」と称する、真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)の寺院です。
真言宗とは、平安時代に弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)によって開かれた宗派です。
豊山派は、主に十八に分かれている真言宗の中の一派であり、奈良県の長谷寺(はせでら)を総本山とし、専誉僧正(せんよそうじょう)を派祖とします。



慈眼寺の物語

慈眼寺は、室町時代の天文十三(1544)年に、貞運大和尚(ていうん だいおしょう)によって開かれました。
本堂に安置されている御本尊の聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)像も、室町時代に造られたものです。
創建当時の慈眼寺は、中野区中央二丁目の堀越高等学校の間近にある「慈眼堂橋」の西方にありましたが、江戸時代に青梅街道添いに移転しました。
なお、「慈眼堂橋」の名前は慈眼寺に由来するものです。


かつて、慈眼寺の住職は、氷川神社(中野区東中野)の別当(べっとう)職を兼ねていました。
別当とは、神社の管理者を兼任する僧侶の役職名です。慶応四年・明治元年(いずれも1868年)に神仏判然令(神仏分離令)が布告されるまでは、仏教と神道は混ざり合って信仰されており、神社にて仏事を行うことが多々ありました。
神仏分離令によって別当職が廃止されたのち、氷川神社は当時の政府へ返還されました。
慈眼寺の氷川堂には、氷川神社の別当職をしたことから「氷川坊さん」と称された慈眼寺第十五代住職、覺順和尚(かくじゅんおしょう)の像が奉られています。


また、明治維新期の慶応四年(1868)に、江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜の警護隊であった彰義隊(しょうぎたい)が旧本堂に立てこもって秘密裏に会合を行い、その際に隊士によって付けられた刀傷が旧本堂の柱に残っていたことが伝えられています。
この旧本堂は、文政・天保(1800年代前半)の間に建造されたと伝えられていますが、昭和二十年(1945)三月の東京大空襲によって消失してしまいました。
しかし、御本尊の聖観世音菩薩像は戦火から守られ、戦後新たに落成した本堂の中で、今日でも大切に祀られています。


昭和五十四年(1979)には、新たに金色の仏舎利(ぶっしゃり)塔が建立されました。
仏舎利塔とは、お釈迦様のご遺骨(仏舎利)を安置するための供養塔です。慈眼寺の仏舎利塔の中には、タイ国の王立一級寺院ワットスラケットより請来された仏舎利(1898年、北インドにあるピプラーワーの大塔より出土した壺に納められていたもの)が納められています。
慈眼寺先代の修補住職は、タイ国バンコク市にある国王立一級寺院ワットスラケットに法縁を得て、修行を続けてまいりました。
やがてワットスラケット寺院より仏舎利を託され、この仏舎利塔を建立するにいたりました。